なぜお笑い芸人が編集者になったのか?藤原武志の半生
平田提Share
編集者・藤原武志さんのキャリアの出発点は、「売れると思っていた」お笑い芸人だった。中学の同級生と吉本の養成所(NSC)に入り、コンビニでバイトしながらネタを磨いた日々。やめることなど考えていなかったのに、相方がやめてしまった。そこから編集者になる話。
中学のときから、売れる以外考えてなかった
──藤原さんって、もともとお笑い芸人だったんですよね。
いや目指していただけで全然だめでした。小学校高学年ぐらいからお笑いが好きで。ダウンタウンをテレビでずっと見ていて、お笑いに憧れて。
──いつ頃から芸人を目指すようになったんですか。
中学の同級生に同じようにお笑いが好きなやつがいて。2丁目劇場に通って、教室でも漫才をやって。高校出たら吉本の養成所に行こうって言ってて、高校を卒業してNSCに入って。 そのままバイトしながら芸人をやっていました。
中学で相方が見つかっていたから、もうそれ以外の生き方が想定できてなかった。売れて女子アナと結婚するって思って生きてましたからね(笑)。
──(笑)。
でも携帯、当時はガラケーだったけど「やめるわ」って相方からメールが来て。「分かった」って。メールで。それで終わってしまった。
──話し合いもなかったんですか。
僕、気がちっちゃい子だから(笑)、そんな話し合えるタイプじゃなくて。嫌われたらもう、ね……みたいな。だから呆然としましたよ。計画が全部崩れて。中学からですからね、狂いさが半端なかった。アナウンサーと結婚する予定が叶わへんってなったときに(笑)。
バックパッカーになって、早々に飽きた
──それからどうしたんですか。
やることがなくなって、沢木耕太郎の『深夜特急』をたまたま手にして。デイリーヤマザキの夜勤を多めに入れてもらって、半年で50万円ぐらい貯めて、旅に出たんですよ。東南アジアをぐるっと回ってインドまで。でも2週間ぐらいでルーティンが分かっちゃって。洗濯とか生活のことが大体フレッシュになれるやり方が分かる。「あ、これ1年余裕で続けられるわ」って思ったら、なんか早く帰ろう、みたいになって。3か月ちょっとでした。
──どれだけ『深夜特急』は人の人生を変えるのか。帰国してからは?
今度は舞台に立つんじゃなくて、「書く」方に回ることにして。先輩とか同期とか後輩とコント劇団を結成したんです。自分が書いて、みんなに演じてもらうという形で。6、7人で。
──ダウ90000みたいな感じですか。
今で言ったらそうかもしれないけど、そんなすごいもんじゃない(笑)。1年ぐらいやってたんですけど、お笑いブームが来てみんな「よしもとでやりたい」と言い始めて、散り散りになってしまって。
──それもへこみますね。
へこみましたね。またやることがなくなって。そのとき劇団の照明を手伝ってくれていた人が「君は書けるんだから、シナリオ学校に行ったらどうか」と言ってくれて。コンビニで『ケイコとマナブ』を開いたら、シナリオ学校の隣に編集学校の募集があって、これだと。
──そっちに行ったんですね。
シナリオって才能勝負じゃないですか。もうそれが嫌んなってきてて。編集教室の方が行き着く先に出版社とかあって、社会保険ももらえそうだなと思って(笑)。そっちを選んだんですよ。
背水の陣で入った編集プロダクション
──編集の学校に行って、仕事につながったんですか。
通い始めて半年ぐらいのときに求人が来て、編集プロダクションに飛びついたら、めっちゃ厳しいところで。女性の先輩がふたりで、だいたい6時くらいに帰る。子どもがいたりして。男は僕と社長で。とにかく徹夜続き。初日から3日間徹夜とか、そんな感じで。
──でも辞めなかった。
「ここしかない」と思ってたから。とにかく編集の学校に求人がきたらかたっぱしから履歴書送ってたんですよ。それで小さなデザイン会社に採用されたんですけど、3か月働いて「使い物にならない」ってクビになってたんですよ。だからもう次はないという気持ちで。背水の陣でしたね。相当ブラックやったんですけど、もうやめるわけにいかなかった。
「売れたい」の正体
──藤原さん、今も「売れたい」って言うじゃないですか。芸人をやめた後も、ずっとそれを追いかけてきた?
そうですね。出版社で編集長を目指したのも、独立したのも、西淀川で雑誌を作ろうとしたのも、全部「売れ方」を探してたんだと思います。でも全部うまくいかなくて、だんだん方向性が変わってきたというか。
──今の「売れ方」のイメージは?
もうユニークなひとではむりっぽいので、本屋さんのトークショーに呼ばれるようなイメージですかねぇ。DIY BOOKSでイベントされてた青木真兵さんとか憧れますよね。あんなん絶対ムリですけど僕には。そうですねぇ、出版で一本立ちできる編集者になったら何者かにはなってますかね。そんなふうに今は思っています。
躁鬱と自己肯定感と、居酒屋の窓際
──ちょっと個人的な話を聞いてもいいですか。藤原さんは躁と鬱の浮き沈みを抱えてますよね。
そうです。
――僕もそうですけど、春の季節はつらくないですか。花粉症もあるけど!
もうぜひ皆さん、悩んだら精神科にすぐ行ってください。それだけはほんまに守っていただきたい。グジグジ言う人いるんですよ、プライドが高いのかなんか知らんけど。それより何より、1回行け!って思います(笑)。
──僕も20代前半に行ってますよ。
そうですか。早めに自分の病が分かっていると楽なんですよね。消化できるというか。
──地域のイベントをやってた時期がしんどかったって聞きました。
地域のことをやりだすと色々頼まれるんですよ。頼まれると嬉しくて全力でやる。でもなんか求められてない感じが出たりとか、逆に頼むと申し訳ないって態度されたりとか。無料だからズルズルってなることもあって。そういうのが重なると、しんどくなっていく。
──坂口恭平さんやカンダバシ語録にもあるけど、躁鬱人ってサービスが生きがいだから、それを塞がれるとしんどい。自己肯定感の問題ですよね。
そうなんですよ。自己肯定感さえあれば、こんなことは何にも問題ないのに。
教える仕事を始めてから、少し楽になった
──これを変えたら少し楽になった、ってことはありますか。
文章の書き方を教える「書く学校」というのをやっているんですけど、これはいい。楽になりましたね。生徒を持つっていうのはほんといい。愛せるでしょ、自分の生徒は。仕事で関わってる人に対してはつい「どういうことですか」とか思うんやけど(笑)、自分の生徒に関しては「分かります、その書き方」ってなる。フラットで話せる。
──僕も同じですよ。ZINEスクール生からSlackで「ここで悩んでます」って来たときのグッとくる感じ、あります。
そうですよね。お金をもらって教える関係だから、対等でいられる。それが地域でのボランティア的な関わりと全然違って。ありがとうって言われるし(笑)。教室はいいですよ。
──一方で藤原さんはイベントも続けてますよね。イベントって集客がしんどくないですか。僕は告知も苦手で。
確かに続くイベントと続かないイベントがある。大事なのは人数というより、反応なのかな、と思っていて。続くイベントは来てくれたお客さんのリアクションが違ったんですよね。「面白かった」とか「今度こういう取り組みに参加しますか」とか、何かアクションがある。それだけでお客さんが少なくても全然嫌じゃなくなる。結局、期待されたら動けるんですよ。期待がなかったらほんまにしんどい。
──藤原さんは本当に乙女というか、純なところが素敵な人だから。
しんどいことがあると居酒屋の窓側の席で飲むんです。あえてみんなが通る道のところで飲んでね。それを見つけてほしいんですよ(笑)。……どうせ見つけられへんことが分かっていてでも、なんかそうしてしまう。かまってちゃんやなと自分でも思うんですけど。
──でも、仲間がほしいっていうことですよね。わがままなんだけど、適度に付き合える仲間が。東浩紀さんの『ゲンロン戦記』を読んでいると、仲間感覚で仕事するのが怖くもなるんだけど。
そうそう。でもそうやって構ってもらって呼ばれるイベントもあるから。いい塩梅を見つけに行かなきゃですね。
(この記事は「つくれる本屋のラジオ」の収録をもとに編集しています。)

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