ある日の朝、息子とお店屋さんごっこをして遊んだ。毎朝、決まった時間に保育園に送りたいのに、行く寸前に遊びが盛り上がって時間が守れない。これも良い学びだ、仕方ないとこちらも遊ぶ。ミニカーに値札をつけて、僕がお客さんになって買い物をする。100円ずつ高くなる値札のつけ方は今日が初めてだ。アンパンマンのお届けセットについていたリモコンのようなものをバーコードスキャナー代わりにして息子がお会計をまとめてくれる。僕はミッキーマウスのポーチに入ったおもちゃの500円玉や1,000円札でお支払いをする。
息子を園に送り届けて帰ってくると、遊びの跡があった。散らばった値札に、きちんと並べられたミニカー。昔から人のこういう痕跡を愛おしい、と思ってきた。脱ぎ散らかした靴下。無残に積まれたメモの山。途中で放置された折り紙。この思いはどこから来るんだろうとも思うが、そもそも僕に限らず人は痕跡を愛おしく思うものなのではないかと思い直した。
大学の頃、長谷正人先生の授業で、著書『映像という神秘と快楽―“世界”と触れ合うためのレッスン』を読みながら「写真もフィルム・映画も、もともとは自然現象だ」という話に衝撃を受けた。その人・モノ、対象物に反射した光、電波がレンズを通り、現像される。長谷先生はこの現象を「キリストの聖骸衣」に例えていたが、そのようにそこには明らかに過去が写っている。鑑賞する者は自然現象を再体験する。「見る」というより「触れる」。いわば明らかに現在ではない、死を観ながら。
写真にしろ、文字の筆跡にしろ、切り絵にしろ、アナログなものにはそういう過去が映し出される。
ただ息子が残した痕跡は、明らかに現在も息づいている。これで思い出したのは、自分なりのドッペルゲンガー理論のこと。ドッペルゲンガーとは昔からある言い伝えで、世の中には自分そっくりの存在がいて、見たら死ぬというものだ。これを僕は逆にとらえて、ドッペルゲンガーとは「自分の死を見て自分を知る」ことなんじゃないかと考えた。自分探しをしても内側にはない。好きな食パン、靴下、映画、ゲーム、服、部屋……外的なモノの集まり、独自な「系」こそが自分である。もしドッペルゲンガーを見たとするなら、その系があまりに自分に似ていて、外に出された自分を見たということなのではないか。自分を見るなんて、幽体離脱でもしない限りできないんだから。
僕が息子の痕跡を愛おしく思ったのは、息子が愛おしかったからに違いない。そして、並んだミニカーや散らばったおもちゃのお金の、その偶然には作り得ない有り様に息子という人間を感じて(自分も遊んだことを思い出して)愛おしくなったんだと思う。
一人ひとり違う系にこそ価値があって、それを残すからこそ人間は人間なのだ、とつくづく最近は考えている。