『もしも文豪がカップ焼きそばの説明文を書いたら』『ニャタレー夫人の恋人』などの菊池良さんによる『夢でする長電話』。
「犬のファッション革命」「ほんとうのパーソナルコンピュータ」「カレーをシチューに変える装置」など、日常の気づきから始まるアイデアの連鎖。エッセイでもあり、ショート・ショートでもある不思議で心地よい読後感の作品です。
ぜひ独特の読み味を味わっていただきたく、ここでは「靴下、探していますか?」を全文公開します。気に入ったらぜひ購入ください!
「靴下、探していますか?」
靴下を手にとって、片足に通したあとにはっと気がつく。
靴下がない。片方だけない。
なぜか靴下はたいていペアになっている。だから、左右揃えて履かないと、なんだか居心地が悪い。けれども、靴下自体は左右分離している。そのことによって、この問題が起きる。
靴下がないと、すこし焦る。だけど、たいていはちょっと探すとすぐ見つかる。ほっとする。ああ、なくしたわけじゃなかったんだ。靴下は、存在していた。
どんな人間も、きっと靴下を探している。片方だけ履いた状態で。素足をすこしだけ上げてバランスをとりながら、「あれ? ひょっとして靴下がない?」。ちょっとバランスを崩して、素足が床について「冷たっ」となる。
かつて好況に湧くニューヨークの光と闇を書いた『華麗なるギャツビー』。その作者であるスコット・フィッツジェラルドにもそんな瞬間があったはず。きっと。
ぼくらには等しく靴下の片方だけがない。世界中の、あらゆる場所で。
☆
「探す」という行為は片方がないときだけに生まれる。片方の靴下を手にとって、もう片方を探すのだ。両方ないときは、探さない。なくなっていることにすら気づかない。静かになくなり、記憶からもなくなる。この事実にはちょっとゾクッとする。両方ないから探されていないものが、この世界にはいっぱいあるんじゃないだろうか? なくなってしまったことばが、だれにもつぶやかれないように。
かつてぼくらは宇宙の一部だった。それがエネルギーの爆発によって分かれて、散り散りになってしまった。生きものがパートナーを求めるのは、かつてひとつだったときの名残だとか。靴下も、かつてはひとつだったのかもしれない。
☆
たいていはすこし探したら見つかるが、いくら探しても見つからないときもある。これは困ったことだ。選択肢はふたつある。
①片足だけ、別の靴下にする
②すでに履いた靴下を脱いで、別の靴下にする
あなたならどうする?
だが、ここにはひとつのパラドックスがある。①を選べる勇気あるものは、最初から靴下を探さないのではないか。適当に手を伸ばして、最初に掴んだ靴下を履くだけじゃないのか。そうなると、そもそも「探す」という発想がなくなる。
①を選ぶということは、左右違う柄になる。なんだか落ち着かない。これに落ち着けるひとは、靴下を探さない。たまに左右同じ靴下になると、「今日はラッキーデイだな」と思うくらいかもしれない。
道行くひとはみんな左右同じ靴下を履いている。そのなかで、ひとりだけ「ラッキーデイ」のひとがいる。左右が同じだから。すこしだけ浮足立っているかもしれない。スキップをするかのように。
☆
探しても見つからない場合もある。あるはずの場所をいくら探しても見つからない。なくしてしまったのだ。
靴下はいったいどこへ消えたのだろうか。ものがなくなるなんてことはない。見つからないだけで、絶対にどこかにある。
だれかが持っていってしまったのかもしれない。いったいだれが?
靴下を勝手に隠してしまうおばけだ。そいつはきみの家にこっそりと住みついている。そいつはきみに外出してほしくない。さびしいから。ずっと家にいてほしいから。
そう考えると、靴下がなくなっても気が晴れるかもしれない。
☆
靴下を探すことに、私たちはどれだけの時間を使っているのだろう。
片方を手にとって、「あれ、もう片方はどこだろう」と探す。仮にその時間を三〇秒だと仮定してみよう。一日に一回は探すことになるから、一年で一万九五〇秒になる。時間に直すと、約三時間。八年で一日分となる。
人生が八〇年だと仮定したら、一生のあいだで、ぼくらは十日間にわたって靴下を探していることになる。ちょっとした旅行よりも長い。ぼくらは「靴下探し」という旅をしている。それは船旅かもしれないし、列車で行くのかもしれない。たまたま席が隣り合ったら、こんな会話をするだろう。
「あなたはどちらへ?」
「ええ、ちょっと靴下を探しに」
「わたしもなんです。なかなか見つからなくて」
「もう四日めです。今日行く場所になかったら……」
「どうします? ひょっとして──左右違う靴下を履きますか?」
「いえ、それは……」
ふたりは沈黙し、窓の景色だけが流れていく。ほら、もっと窓のむこうも見ないと! そこに靴下があるかもしれないよ。
☆
さて、どんなものでも売り買いしてしまうのが現代の資本主義だ。
ハーバード大学教授である政治哲学者のマイケル・サンデルは、その現状を著書『それをお金で買いますか』(早川書房)で批判した。お金を払えば刑務所のランクが上がるのは、それは正義だろうか? 炭素の排出権の売り買いは? 寄付の金額が大学受験の合否に影響するのは?
こうした市場の流れからすれば、市場では「靴下を探す時間」も売り買いされていることだろう。
現代人は忙しい。お金があっても、時間がない。そんなひとが「靴下を探す時間」を買う。なにせ一人分の時間を買ったら、十日間もついてくるのだ。
買ったひとはその時間であたらしいチャレンジをしたり、友達と遊んだり、旅行をしたりするだろう。
売ったひとはお金がもらえて、そのお金であたらしいチャレンジをしたり、友達と遊んだり、旅行をしたりするだろう。
ウィンウィンだ。お互いに時間とお金を有効活用する。なんだかおかしな気もするけれど、ウィンウィンなんだからしょうがない。
でも、うっかり左右の違いを気にしないひとの時間を買ってしまうとたいへんだ。せっかく買ったのに、ほとんど時間は手に入らない。だから、「このひとは靴の左右を気にするかな?」とよく観察しなきゃいけない。左右違う柄の靴下を履いていたら要注意だ。
☆
靴下を最初に履いた人間は誰だったのだろうか。正確なことはわかっていないが、その歴史はかなり古いことだけはわかっている。
「ボタン」はだれが発明したのか記録に残っていない。服のボタンだ。服飾の歴史を永遠に変えるイノベーションなのに、それがだれによってなされたのか、うっかり記録しなかった。そういったことは、人類の歴史ではたまにある。
靴下よりもさきに、靴があったはずだ。なぜなら「靴下」という名称は、靴を前提としている。靴下がさきに生まれているとしたら、靴のほうが「靴下のうえ」というような名前になっているはずだ。「靴ひも」は「靴下のうえのひも」になる。言いにくい。ややこしい。ここにひとつの事実として、「はじめに靴ありき」というテーゼを立てることができる。
つまり、靴下を考えた人間は、靴を履いていたことになる。
素足で外を闊歩していた人類が、あるとき気がつく。
「痛いのでは?」
素足で歩くと、小石などを踏んづけて足のうらが痛い。血が出るときもあるだろう。これをなんとか防ぎたい。こうして、靴が開発される。生地を厚めにして革にするといいだろう。脱げないように紐で結ぼうか。足のうらの部分はうんと固くしてやろう。ああ、これこれ。とっても便利。小石を踏んでも、痛くない!
そして、みんな靴を履くようになってしまう。しかし、新たな問題が出てくる。
カーペットが汚れてしまう。
靴を履いて外出して、いろんな場所を歩いていると、当然ながら靴のうらが汚れてしまう。だから、帰ってきたときにそのままカーペットのうえを歩いてしまうと、カーペットが汚れてしまう。
裸足なら洗えばいいけれど、靴だったら洗うのにひと苦労する。外出のたびに洗うのはたいへんだ。そこで脱ぐことになる。
だけど、裸足で歩き回るのも躊躇してしまう。靴に慣れてしまうと、裸足がなんだか恥ずかしい。ぼくらは一度なにかで覆ってしまうと、それを改めて見せることに恥ずかしさを覚えてしまう。なんでだろう? 人間って、そうだ。
なにか「靴」と「裸足」の中間にあたるものは作れないだろうか。いろんなひとが頭をひねって、やがて「靴下」が発明される。
靴下をはじめて履いたひとは、感動したことだろう。ああ、ふわふわしている。まるで雲に足を突っ込んでいるかのようだ! この靴下に柄をつけたらなんかファッションのワンポイントにもなるし。うん、すごくいい。
☆
しかし、ここでアンチテーゼも存在する。
カーペットが早く汚れたほうが、買い替えも早くなるので商売として得するだろうというアンチテーゼだ。
おそらくこういった勢力もいたはずだ。そういったひとたちは靴下を使うことを妨害してくるだろう。ネガティブキャンペーンだ。
「靴下を履くのは軟弱だ」
「靴下を履いていると、病気になりやすい」
「この前の事件の犯人は、靴下を履いていた」
「吸血鬼は靴下が大好きで、靴下のある家を襲う」
もちろんすべてデタラメなのだけど、アンチテーゼ側はがんばる。カーペットを踏んづけてもらいたいから。でも、事態は複雑になる。靴下を売るカーペット屋が登場するのだ。自分たちが持っている生地を使って、靴下を売り出すのだ。カーペットの買い替えを早くするのと、カーペットを長持ちさせて靴下も売るのとではどっちが儲かるのだろう? 市場はたまにこういった難問を用意する。
考えているうちに頭が痛くなる。ちょっと休憩して、コーヒーでも飲もうか。ああ、キッチンの床が冷たい。フローリングだから。そうだ、靴下を履こう。
☆
ぼくらに履かれた靴下は、洗濯機に放り込まれてしまう。やがて洗濯機がまわり、ふたりは離ればなれになってしまう。だけど、ふたりは再び出会う。靴下の左右として。ぼくらは同じ柄の靴下を履きたいから。ふたりはまたいっしょになる。そうした奇跡の再会が、ぼくらの足もとでは毎日起こっている。
夢でする長電話
『もしも文豪がカップ焼きそばの説明文を書いたら』『ニャタレー夫人の恋人』などの菊池良さんによる『夢でする長電話』。
こんな内容です。
- 靴下、探していますか?
- カレーをシチューに変える装置
- 犬のファッション革命
- 防寒グッズと人類の未来
- ほんとうのパーソナルコンピュータ
日常の疑問からスタートした、エッセイのようなショートショートのような不思議な読後感。ぜひお読みください。