UnsplashのKen Whytockが撮影した写真
言葉にも鮮度がある。賞味期限がある。そして、言葉にできないことのほうが大半である。日々書いているとつい忘れてしまうが、大事なことだ。
「何度もインタビューを受けていると、言っていることが本当かウソか分からなくなる」
あるインタビュイーに言われたことがある。ニュアンスで書いているので、実際は違う言葉だったかもしれない。ただ要旨としては、自分の作品が話題になり取材を受けることが増えたが、同じような質問を受けて答えるたびになんだか答えがテンプレート化していって、本当に表現したいことからずれているような気がする……ということだったように思う。
『文学としてのドラゴンクエスト』を出版されたあと、著者のさやわかさんもイベントで同じようなことを言われていた。ただし聞き手の立場として。『文学としてのドラゴンクエスト』は、国民的RPGといわれる『ドラゴンクエスト』の作者・堀井雄二さんの現実とフィクションのかかわりや、同郷で同時代に同じ早稲田大学のキャンパスにいた、村上春樹さんとのリンクなどを分析した本だ。確かイベントでさやわかさんが話したのは「『なんで堀井さんに直接インタビューしないんですか』って言われることがあるんだけど、本人は何度も同じ話をしているからどこかウソになっていることがあるんです」といったことを言われていた。だから、『ドラクエ』が出た当時の雑誌『ファミ通』のインタビューとか、関係者の証言とか、別の史料(資料)をあたる。その姿勢にライターとして感動した。これはインタビュアーとして自分もずっと仕事をしていて感じることだ。たとえば新作の映画のテーマや撮影の工夫を映画監督本人に聞いても、監督はプロモーション時期に何度も同じ話をするわけで、どうしてもどこかで聞いたような話になってしまう。芸人のエピソードトークや噺家の落語はやはり毎度笑わせる技術があるが、話芸を本業にしない人にはこれは難しい。かつ、聞かれて答える話は笑いが目的じゃないわけだ。その「話」の中に伝えるべき本質があるのだが、実はその大部分は言語化できない部分が多いのではないか。
堀井さんならなんでゲーム開発するようになったのか。手前味噌だが、僕ならなんで本屋をやっているのか。何度も答えているうちに、言葉にできない部分が捨象されてしまって、言葉が中心になってしまう。ところが言葉というのは現実や過去を代替して表現するものでしかないから、当然言葉にできないニュアンスは抜け落ちる。それなのに言葉が同じプログラムとして「再演」される。さやわかさんがこういった取材方法を信用していない、というのは書き手としてとても誠実だと思った。言葉にも鮮度がある。獲れたての魚のように。それに、その言葉が本当に真実をとらえているかは分からない。なのに魚は放っておけば鮮度が落ちていく(冷蔵庫に入れたって)。これは自分の体験や感情を書くときでもそうだ。真にその本質を言葉にできるかは分からない。雑誌『BRUTUS』の編集長・西田善太さんがいうように「好奇心を人任せにしない」のが大事だ。
『ドラクエ』がなぜ同時代で抜きん出たゲームタイトルになったのか。僕はなぜ本屋をやろうと思ったのか。そういう出発点となる動機を忘れないようにする。その動機(仮説といってもいい)に沿って材料を集める。信頼できるソースをあたる。意外に、自分の外に真実がある場合もある。というより、その方が多い気もする。人間は他者との関係の中で言葉をつむぐわけで、その言葉は相手との関係性や聞く姿勢によっても変わりうる。自分の本当の言葉は、他者が持っている場合も多いのである。