お小遣いをやりくりするために(そして健康のために)弁当を最近作っている。たいていは昨日の残りものにソーセージや卵料理を足すぐらいだ。ふと思ったのは、「随筆も弁当のようなものではないか」ということだ。あるいは俳句もそうかもしれない。商売ではない弁当というものは基本的に自分や家族、身近な人のために作る。InstagramやX(旧Twitter)に上げようときれいに作る人もおられるが、そうでもなければそこそこの見た目で作る。自分だけのための弁当だったら、本来は人に見せるためではないから、見ばえをそこまで気にする必要はないはずだ。人に見せることを意識しすぎるとつらくなる。続かなくなる。
『パターソン』的な在り方
大好きな映画『パターソン』では、主人公のバスドライバー・パターソン(アダム・ドライバー)が、毎日手帳に詩をしたためるさまが描かれる。妻は「出版してほしい」と言うが、パターソンは乗り気ではない。バスの出発前に詩を書き、公園の滝を眺めながら妻の作ってくれた弁当を食べるのが好きなだけなのだ。
日記や随筆や俳句にしても、もちろん誰かに届けるために書かれるものは価値のあるものがあろうが、SNSやブログに上げるために書くことが苦しくなるぐらいだったら、自前の弁当を作るように書くぐらいが、少なくとも僕にはちょうどいい。
科学と俳諧の人・寺田寅彦
僕が一番好きな書き手はおそらく、寺田寅彦である。寺田寅彦は東京大学や理化学研究所に所属した物理学者だ。関東大震災後の「震災は忘れたころにやってくる」というのが寺田の発言ともされているが、確かではない。寅彦はX線についてなどのほかに、ヒビの割れ方や金平糖の突起の作られ方の研究もした。
夏目漱石の門下生でもあるが、ほとんど漱石は対等につきあっていたといわれる。寅彦は俳句もたしなむし、『団栗』『電車と風呂』など写生文・随筆も一級品である。日常で感じる不思議や「あはれ」を句や文にするのと、科学的な研究をするのは不可分なものというか、同じところから出発しているのだろう。
寅彦にしても、パターソンにしても、書くことが本業ではない。それで身を立てようとは思っていない。ただ書き続けている。それは弁当を作るようでもある。誰かに見せるためではなく、ただ食べるために。そして自分にしか分からない彩りを感じるために。
それが大事だ。生活の中に書く時間があること。自分の心の動きを書きとめること。
雑談のような文章の在り方を
今の時代ほどみんなが書く時代もないだろう。SNSにブログに、チャットにメールに。AIが手伝ってもくれるけれど、恐ろしいほど目的に支配されている。コンバージョンをとるために、上司の承諾を得るために。そういう文が多い。
コロナ禍を経て、多くの人が気がついたのは雑談の重要性だろう。僕は独立してからずっとリモートで働いてきて心身を病んだ。隣にたわいもない話ができる同僚がいる、というのはいいものである。組織で働くのはいやなんだけど……。
それと同じで、目的ばかりの文章を書くというのも疲れるのである。僕はテキストコミュニケーションに疲れてつくづく書くのが嫌になった時期がある。文字がいやになり、声がいい、とも思った。
でもパターソンや寅彦を知り、文を書くにしてももっと穏やかな在り方があると分かった。
別に文章で食おうとか、この文章ですごいと思ってもらおうなんてそんなことはしなくてもいい。ただ自分にしか、自分の興味や言動でつくられる「系」にしか放てない輝きがある。それは書かれるべきだ。いきなり清書でなくてかまわない。自分にしか読み取れない文字で手帳に書き留めておく。それをいつかまとめて書く。それが結果的に人に見せられそうになったら、発表したらいい。
そういう、書く時間と習慣が弁当づくりのようにあってほしいんである。弁当といっしょで、三日坊主になりがちではある。そうならないためには、冷凍食品や昨日の残りで弁当をつくるように、「こんなんでいい」レベルの文をたくさん書くことだと思う。そんな文でも、確実に心が動いたのなら、立派な足跡である。その足跡が他の人を動かすこともあるのである。