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Home / Archives for 随筆

随筆

『論理的思考とは何か』名著誕生。何がロジカルかは目的・場面・文化で変わる

2024年12月26日

論理的思考とは何か

渡邉雅子さんの『論理的思考とは何か』(岩波新書)を読んだ。すごい本。2024年読んだ本の中で一番の衝撃を受けた。

「ロジカル」「論理的」といわれると、「主張・根拠・結論」というアメリカ的な論理構造を思い浮かべることが多い。いわゆるPREP法のような。

ところが目的、国・宗教・思想、場面によって適切な論理手法は異なり、多元的に使い分けることが大事だと著者は言う。

各文化で違う、作文教育と論理的思考の関係

同じ4コマ漫画を見せても、日本の子どもは時系列や感情で内容を捉えるのに対し、アメリカの子どもは怒った事件の結論の記述から始める。

その論理的思考には作文教育の影響があり、その背景には社会的な要請があるようだ。

論理的であることは「読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚である」と筆者は語る。

つまり、論理的であることは、社会的な合意の上に成り立っている、と。

経済・政治・法技術・社会…4つの論理的思考

ウェーバーの議論を受けて、論理的思考のタイプは「経済」「政治」「法技術」「社会」の4つに大別できると筆者はまとめる。

さらにアメリカではエッセイ(経済)、フランスではディセルタシオン(政治)、イランのエンシャー(法技術)、日本の感想文(社会)と、作文教育と論理構造の違いの関連性が語られる。

アメリカの応用言語学者カプランによる、言語別の生徒の論理展開の違いを表した図が面白い。

アメリカ的な「5パラグラフエッセイ」で結論から「逆向き」に構築する論理は、競争社会の中で効率的に最大限の利益を追求する背景から生まれたと考えられる(経済)。

フランスのディセルタシオンはヘーゲル的な正→反→合の構成を求められ、必ず反論を経て、それを複合して次の問いを残す形で終わる。それはフランス革命後の共和制の中で政治参画する市民を育てるための社会要請がある(政治)。

イランの「エンシャー(文学的断片)」はコーランの真理を揺るがないものとし、流れや表現の美しさを求め、最後はことわざや神の感謝で終わる。イスラーム法に基づく法学者の判断は個人によるものではなく、コーランの膨大な解釈を適用するものである(法技術)。

日本の感想文は利他や共感の精神を育み、中学校以降で習う意見文は自分の意見に対する反論も加味することで社会秩序との調整が、高校以降の小論文は前提に対して別の角度から述べさせることで社会改革の視点が求められる(社会)。

日常に必要とされるレトリック

著者がアリストテレスの時代からたどるように、論理学は演繹・帰納、アブダクションを利用するが大半の論理が適用される場面はレトリックである。

レトリックは必然の対義語である「蓋然」的推論が元だ(すべての場合に正しくはないが一般的には正しいとされる事柄を根拠とする)。

怒りや対立は、感情のすれ違いや意見の違いの前に、そもそも取っている論理手法が違うから怒る場合もあるのではないかという観点が面白い。

※さらにいえばウェーバーのいう、形式合理性と実質合理性の対立もある。目的を疑わず手段を議論する前者と、目的自体を疑う後者との違い。

すべての論理形式は万能ではない。だからこその使い分けを著者は薦める。

膨大な資料を元に根拠を例示し、短い文量でまとめきった著者の仕事はすごみがある。

個人的に今書いている本のテーマの一つ「経済合理性」や、山本七平→阿部謹也→鴻上尚史の流れにある「社会と世間」の問題、一神教と多神教の世界観の違いにも共鳴する内容で、大変興味深かった。

感想文は生活綴方の思想を受け継いでいるのか

日本の感想文は教師・芦田恵之助を中心とした、戦前の生活綴方運動から端を発している。生活記録を通して、何を感じたか、時系列の変化を記述する。そこには禅やマルクスの思想なども反映されているのだが、生活綴方では内容の真偽や奥深さは評価されない。その過程が重視される。その背景には自然としての子どもをかわいがる思想がある。

生活綴方運動とリンクするのが、写生文である。柄谷行人の『日本文学史序説』の後半では、正岡子規や寺田寅彦の写生文・随筆を俳諧に連なる日本的な世界を把握する方法として分析している。

世界(世間)の無常(常にエントロピー増大・変化する)に対して「あはれ」を詠うのが日本的な感情・写生文にも近いものであって(そしてそれは「カーニバル的なもの」で、その他諸国にも存在する概念)私と公の間のあいまいさ、間主観的なものを求めようとする動きに思える。

つまり「私」が装置として介在する意味はあるが、必ずしも「私の自我」がなくてもいい。

※俳人の黛まどかさんがフランスで俳句を教えるとなったときに、生徒がやたらと「je(私)」を入れようとした、という話があった。一方で、ディセルタシオンでは「私」は入れないという厳密なルールがある。面白い。確かに俳句では「私」はわざわざ言わない。

ダ・ヴィンチ以降の遠近法や、中国から連なる日本の山水画にあるように、空間認識にも信仰の問題が影響している。絶対者を想定した原理の元に空間を捉えて再構成しようとする一神教の考え方と、自然の中での個人の主観的な風景を捉えようとする多神教的日本の在り方は違う。

※谷崎潤一郎も、「大陸と日本」の物語の論理構造の違いを述べていた。

個人的に現代の「感想文」には生活綴方の精神の一部しか受け継いでいないようにも思う。書くべきは「私の感想」というより、俳句・写生文的に「私を通過したこと」、つまり生活についてなのではないかと思うのだ。

※地方の子どもたちが地域の貧窮した状況を綴ったことで統制が効かなくなると政府には捉えられた側面もあったようで、生活綴方運動は1940年代に下火になった

※だから写生文や随筆を僕はとてもアナーキーな行為だと思っているし、だからこそDIY BOOKSの活動を通して随筆家が増えた方がいい、と思っている。

日本では「和」を保とうとする概念が支配的で、それは「意見文」のように場を調整する考えに至るわけだが、ときにそれは付和雷同な人間を増やすことになりかねず、空気を読んで忖度を生みかねない危険性もはらむ。

日本の論理とSNSやビジネスの論理はアンマッチが多いのでは

どうも日本の風景と繋がる根本的な論理と、政治・会議、SNSなどシステムの在り方がマッチしていないように思うのである。というより『論理学的思考とは何か』で書かれているような、場面に応じた論理手法の使い分けができていないことが問題だろう。

X(旧Twitter )が他の国より日本で人気なのは、「あはれ」を詠いやすいつくりだからだと思う。ただそこに拡散機能があるために、炎上して人の命まで奪うことになる。こんな機能は本来必要ない。無駄な世間(狭い意識の、ムラ社会)と対立を生み出している。

Twitterを生み出したジャック・ドーシーや、リツイート機能をつくったエンジニア、クリス・ウェザレルがそれを後悔しているように、本来は拡散など必要なかった。「新宿なう」「ゴーゴーカレーなう」でよかったのである。だがこれはアメリカの経済的な論理で生み出されたものだ。インプレッションがより多くなり、ユーザーも増える仕組み。ただここに日本の感想を述べる論理がマッチしていない(というより悪魔合体してしまった)。

ただ、いま多くの人がやっているようにXを使わなければいい。SNSをやめればいい。あるいは別のSNSに移ればいい。もしくはXにふさわしい論理手法で語れればいい(難しいのだが)。

現代で起こっている意見の対立の現場には、「もしかしたら論理手法自体の違いかもしれない」と一歩立ち止まるメタ認識がまず必要だ。それこそがムラ社会的な「世間」ではなく、大人な「社会」だと僕は考える。

演技力と、論理の使い分け

先日のM-1グランプリ第20回で優勝した令和ロマンの高比良くるまはその演技力を、マジカルラブリー野田や霜降り明星・粗品に評価されている(個人的には松井ケムリの「自分」でしかありえない在り方も好きである)。

MCが「その場の主語」になりがちな現場ではなく、自分を出しやすい場所を選び、その場その場で演技をする。それは八方美人や自分がないということではなく、しゃべくりや漫才コント、ネタの構成や演技を変えるようなものなのだ。

※個人的に、日本のお笑いはかなり高度なコミュニケーションの試行の宝石箱だと思っている。

大事なのは「相手に合わせた演技力」なのだと思う。自分の感じたことを、どういう手法で伝えるか。それをフラットに受け止めるか。違う意見を出せるか。そういう場が、社会がいいなと思う。

演技だからといって嘘ではなく、自分や相手をより活かすための手法である。それは論理的思考を使い分けるということにかなり近いのではないかと思った。

渡邉雅子『論理的思考とは何か』(岩波新書)

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※弊店で注文される方はお問い合わせください

カテゴリ書評 関連タグ:書評, 演技力, 論理, 随筆

餃子の王将と美容院と、自信について。

2024年8月13日

餃子の王将

先日、散髪に行ってきました。土日に予定が入ることが多いので、最近は平日の仕事の合間を見つけて行きます。そのたびに「今日はお休みですか?」なんて聞かれて、適当に「ええ、まあ」と返すんです。「実は自分ひとりで会社をやっているんです」とか「自営業なんですよ」とか答えた方がいいのかなと思ったりもします。

昔から床屋さんや美容院であまり会話をしたくないというか、あまり素性を知られたくない気持ちがあって。あと、どうしても「僕みたいな者が美容院に行ってすみません」というような恥ずかしさもあります。そういった理由で、あまり深く話さないようにしています。


話がそれましたが、僕がよく行く美容院は30分でカットしてくれます。お客さんも多くて混んでいますが、みなさん腕は確かです。

その後お腹が空いてしまったので、餃子の王将に行きました。私の最寄り駅の「餃子の王将」武庫之荘店は、店員の方がすごくテキパキしていて良いお店です。ほかの店舗に行ったとき、料理が出てくるのが遅かったり、連携が取れていないなと感じたり、料理が冷めていたりして少しがっかりしたことがありました。武庫之荘店はすごくスピーディで、料理もアツアツで出てくるんですよね。私は中華セットやレバニラ、回鍋肉や餃子を組み合わせて食べるのが好きなんです。

以前、餃子の王将が最近業績好調だというニュースを見ました。その分析として、AIや自動化の時代にあって、人間が手作りでシンプルに提供していることが評価されている、という話がありました。それはその通りだろうなと思います。料理が速く出てきて美味しいですし、目の前で調理しているのが見えるのも魅力的です。

定期的に「フェア」のセットをやるのは、もちろん売り上げを上げるためでもあるでしょうが、作る量が増えることでスタッフのスピードや腕前が上がる効果がある、と聞いたことがあります。

餃子の王将に限らず、天下一品など同じチェーン店でもお店によって味が違うことがあります。忙しいお店は美味しい気がします。もしくは忙しくて腕前が良くなってうまくなって結果繁盛している……ということなのかもしれません。

先ほどのフェアの話のように、たくさん作ることで腕が上がる、というのはある程度どの業界でも共通する部分がありそうです。

私の通っている美容院は若いスタッフの方でも、たくさんのお客さんの髪をスピーディーにカットしているからか、経験値が高く、上手な方が多いと感じます。もちろん、席数や技術によって必ずしも比例するわけではないと思いますが、やはり数をこなすというのはどの世界でも大事なことだなと改めて思いました。

昔働いていた会社で、「平田は成功体験がないもんな」と言われて、すごく落ち込んだことがあります。実際、当時は成功体験がありませんでした。その言葉が10年以上、呪いのように心に残っていました。だいぶ後になってから成功体験らしきものができて、ライターや編集者、ディレクターとして独立し、法人化もできました。もちろんどこかに成功体験といえるものはあったのかもしれませんが、自信が出てきたのはやっぱり数をこなしたからだと感じています。

書いた記事の数が500本以上になり、5000記事ほど編集してきました。その経験が、自分のスピードを上げてくれたんだと思います。もちろんスピードだけが重要ではありませんが、最近40代になり、衰えを感じることも増えてきました。スピードは下がる一方ですが、それでもやらなければ生きていけないので、やるしかないです。その限られたリソースと集中力の中でなんとかなるのは、自分が数をこなしてきた経験からにじみ出るもののように思っています。

仕事の質が担保できないと仕事にならないので、そういう意味で数をこなすことの大切さを実感しています。

これからも、ある程度の数をこなしていかなければならないと感じています。仕事のご相談があれば、どうぞお気軽にお声掛けください。

カテゴリ随筆 関連タグ:気づき, 随筆, 餃子, 餃子の王将

弁当と随筆。身を立てる目的以外にも、書く意味はある

2024年5月9日

お小遣いをやりくりするために(そして健康のために)弁当を最近作っている。たいていは昨日の残りものにソーセージや卵料理を足すぐらいだ。ふと思ったのは、「随筆も弁当のようなものではないか」ということだ。あるいは俳句もそうかもしれない。商売ではない弁当というものは基本的に自分や家族、身近な人のために作る。InstagramやX(旧Twitter)に上げようときれいに作る人もおられるが、そうでもなければそこそこの見た目で作る。自分だけのための弁当だったら、本来は人に見せるためではないから、見ばえをそこまで気にする必要はないはずだ。人に見せることを意識しすぎるとつらくなる。続かなくなる。

『パターソン』的な在り方

大好きな映画『パターソン』では、主人公のバスドライバー・パターソン(アダム・ドライバー)が、毎日手帳に詩をしたためるさまが描かれる。妻は「出版してほしい」と言うが、パターソンは乗り気ではない。バスの出発前に詩を書き、公園の滝を眺めながら妻の作ってくれた弁当を食べるのが好きなだけなのだ。

日記や随筆や俳句にしても、もちろん誰かに届けるために書かれるものは価値のあるものがあろうが、SNSやブログに上げるために書くことが苦しくなるぐらいだったら、自前の弁当を作るように書くぐらいが、少なくとも僕にはちょうどいい。

科学と俳諧の人・寺田寅彦

僕が一番好きな書き手はおそらく、寺田寅彦である。寺田寅彦は東京大学や理化学研究所に所属した物理学者だ。関東大震災後の「震災は忘れたころにやってくる」というのが寺田の発言ともされているが、確かではない。寅彦はX線についてなどのほかに、ヒビの割れ方や金平糖の突起の作られ方の研究もした。

夏目漱石の門下生でもあるが、ほとんど漱石は対等につきあっていたといわれる。寅彦は俳句もたしなむし、『団栗』『電車と風呂』など写生文・随筆も一級品である。日常で感じる不思議や「あはれ」を句や文にするのと、科学的な研究をするのは不可分なものというか、同じところから出発しているのだろう。

寅彦にしても、パターソンにしても、書くことが本業ではない。それで身を立てようとは思っていない。ただ書き続けている。それは弁当を作るようでもある。誰かに見せるためではなく、ただ食べるために。そして自分にしか分からない彩りを感じるために。

それが大事だ。生活の中に書く時間があること。自分の心の動きを書きとめること。

雑談のような文章の在り方を

今の時代ほどみんなが書く時代もないだろう。SNSにブログに、チャットにメールに。AIが手伝ってもくれるけれど、恐ろしいほど目的に支配されている。コンバージョンをとるために、上司の承諾を得るために。そういう文が多い。

コロナ禍を経て、多くの人が気がついたのは雑談の重要性だろう。僕は独立してからずっとリモートで働いてきて心身を病んだ。隣にたわいもない話ができる同僚がいる、というのはいいものである。組織で働くのはいやなんだけど……。

それと同じで、目的ばかりの文章を書くというのも疲れるのである。僕はテキストコミュニケーションに疲れてつくづく書くのが嫌になった時期がある。文字がいやになり、声がいい、とも思った。

でもパターソンや寅彦を知り、文を書くにしてももっと穏やかな在り方があると分かった。

別に文章で食おうとか、この文章ですごいと思ってもらおうなんてそんなことはしなくてもいい。ただ自分にしか、自分の興味や言動でつくられる「系」にしか放てない輝きがある。それは書かれるべきだ。いきなり清書でなくてかまわない。自分にしか読み取れない文字で手帳に書き留めておく。それをいつかまとめて書く。それが結果的に人に見せられそうになったら、発表したらいい。

そういう、書く時間と習慣が弁当づくりのようにあってほしいんである。弁当といっしょで、三日坊主になりがちではある。そうならないためには、冷凍食品や昨日の残りで弁当をつくるように、「こんなんでいい」レベルの文をたくさん書くことだと思う。そんな文でも、確実に心が動いたのなら、立派な足跡である。その足跡が他の人を動かすこともあるのである。

カテゴリ随筆 関連タグ:パターソン, 寺田寅彦, 弁当, 随筆

痕跡を愛おしく思うこと。そこに人の「系」を見ること

2024年5月9日

ある日の朝、息子とお店屋さんごっこをして遊んだ。毎朝、決まった時間に保育園に送りたいのに、行く寸前に遊びが盛り上がって時間が守れない。これも良い学びだ、仕方ないとこちらも遊ぶ。ミニカーに値札をつけて、僕がお客さんになって買い物をする。100円ずつ高くなる値札のつけ方は今日が初めてだ。アンパンマンのお届けセットについていたリモコンのようなものをバーコードスキャナー代わりにして息子がお会計をまとめてくれる。僕はミッキーマウスのポーチに入ったおもちゃの500円玉や1,000円札でお支払いをする。

息子を園に送り届けて帰ってくると、遊びの跡があった。散らばった値札に、きちんと並べられたミニカー。昔から人のこういう痕跡を愛おしい、と思ってきた。脱ぎ散らかした靴下。無残に積まれたメモの山。途中で放置された折り紙。この思いはどこから来るんだろうとも思うが、そもそも僕に限らず人は痕跡を愛おしく思うものなのではないかと思い直した。

大学の頃、長谷正人先生の授業で、著書『映像という神秘と快楽―“世界”と触れ合うためのレッスン』を読みながら「写真もフィルム・映画も、もともとは自然現象だ」という話に衝撃を受けた。その人・モノ、対象物に反射した光、電波がレンズを通り、現像される。長谷先生はこの現象を「キリストの聖骸衣」に例えていたが、そのようにそこには明らかに過去が写っている。鑑賞する者は自然現象を再体験する。「見る」というより「触れる」。いわば明らかに現在ではない、死を観ながら。

写真にしろ、文字の筆跡にしろ、切り絵にしろ、アナログなものにはそういう過去が映し出される。

ただ息子が残した痕跡は、明らかに現在も息づいている。これで思い出したのは、自分なりのドッペルゲンガー理論のこと。ドッペルゲンガーとは昔からある言い伝えで、世の中には自分そっくりの存在がいて、見たら死ぬというものだ。これを僕は逆にとらえて、ドッペルゲンガーとは「自分の死を見て自分を知る」ことなんじゃないかと考えた。自分探しをしても内側にはない。好きな食パン、靴下、映画、ゲーム、服、部屋……外的なモノの集まり、独自な「系」こそが自分である。もしドッペルゲンガーを見たとするなら、その系があまりに自分に似ていて、外に出された自分を見たということなのではないか。自分を見るなんて、幽体離脱でもしない限りできないんだから。

僕が息子の痕跡を愛おしく思ったのは、息子が愛おしかったからに違いない。そして、並んだミニカーや散らばったおもちゃのお金の、その偶然には作り得ない有り様に息子という人間を感じて(自分も遊んだことを思い出して)愛おしくなったんだと思う。

一人ひとり違う系にこそ価値があって、それを残すからこそ人間は人間なのだ、とつくづく最近は考えている。

カテゴリ随筆 関連タグ:子ども, 映画, 随筆

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