渡邉雅子さんの『論理的思考とは何か』(岩波新書)を読んだ。すごい本。2024年読んだ本の中で一番の衝撃を受けた。
「ロジカル」「論理的」といわれると、「主張・根拠・結論」というアメリカ的な論理構造を思い浮かべることが多い。いわゆるPREP法のような。
ところが目的、国・宗教・思想、場面によって適切な論理手法は異なり、多元的に使い分けることが大事だと著者は言う。
各文化で違う、作文教育と論理的思考の関係
同じ4コマ漫画を見せても、日本の子どもは時系列や感情で内容を捉えるのに対し、アメリカの子どもは怒った事件の結論の記述から始める。
その論理的思考には作文教育の影響があり、その背景には社会的な要請があるようだ。
論理的であることは「読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚である」と筆者は語る。
つまり、論理的であることは、社会的な合意の上に成り立っている、と。
経済・政治・法技術・社会…4つの論理的思考
ウェーバーの議論を受けて、論理的思考のタイプは「経済」「政治」「法技術」「社会」の4つに大別できると筆者はまとめる。
さらにアメリカではエッセイ(経済)、フランスではディセルタシオン(政治)、イランのエンシャー(法技術)、日本の感想文(社会)と、作文教育と論理構造の違いの関連性が語られる。
アメリカ的な「5パラグラフエッセイ」で結論から「逆向き」に構築する論理は、競争社会の中で効率的に最大限の利益を追求する背景から生まれたと考えられる(経済)。
フランスのディセルタシオンはヘーゲル的な正→反→合の構成を求められ、必ず反論を経て、それを複合して次の問いを残す形で終わる。それはフランス革命後の共和制の中で政治参画する市民を育てるための社会要請がある(政治)。
イランの「エンシャー(文学的断片)」はコーランの真理を揺るがないものとし、流れや表現の美しさを求め、最後はことわざや神の感謝で終わる。イスラーム法に基づく法学者の判断は個人によるものではなく、コーランの膨大な解釈を適用するものである(法技術)。
日本の感想文は利他や共感の精神を育み、中学校以降で習う意見文は自分の意見に対する反論も加味することで社会秩序との調整が、高校以降の小論文は前提に対して別の角度から述べさせることで社会改革の視点が求められる(社会)。
日常に必要とされるレトリック
著者がアリストテレスの時代からたどるように、論理学は演繹・帰納、アブダクションを利用するが大半の論理が適用される場面はレトリックである。
レトリックは必然の対義語である「蓋然」的推論が元だ(すべての場合に正しくはないが一般的には正しいとされる事柄を根拠とする)。
怒りや対立は、感情のすれ違いや意見の違いの前に、そもそも取っている論理手法が違うから怒る場合もあるのではないかという観点が面白い。
※さらにいえばウェーバーのいう、形式合理性と実質合理性の対立もある。目的を疑わず手段を議論する前者と、目的自体を疑う後者との違い。
すべての論理形式は万能ではない。だからこその使い分けを著者は薦める。
膨大な資料を元に根拠を例示し、短い文量でまとめきった著者の仕事はすごみがある。
個人的に今書いている本のテーマの一つ「経済合理性」や、山本七平→阿部謹也→鴻上尚史の流れにある「社会と世間」の問題、一神教と多神教の世界観の違いにも共鳴する内容で、大変興味深かった。
感想文は生活綴方の思想を受け継いでいるのか
日本の感想文は教師・芦田恵之助を中心とした、戦前の生活綴方運動から端を発している。生活記録を通して、何を感じたか、時系列の変化を記述する。そこには禅やマルクスの思想なども反映されているのだが、生活綴方では内容の真偽や奥深さは評価されない。その過程が重視される。その背景には自然としての子どもをかわいがる思想がある。
生活綴方運動とリンクするのが、写生文である。柄谷行人の『日本文学史序説』の後半では、正岡子規や寺田寅彦の写生文・随筆を俳諧に連なる日本的な世界を把握する方法として分析している。
世界(世間)の無常(常にエントロピー増大・変化する)に対して「あはれ」を詠うのが日本的な感情・写生文にも近いものであって(そしてそれは「カーニバル的なもの」で、その他諸国にも存在する概念)私と公の間のあいまいさ、間主観的なものを求めようとする動きに思える。
つまり「私」が装置として介在する意味はあるが、必ずしも「私の自我」がなくてもいい。
※俳人の黛まどかさんがフランスで俳句を教えるとなったときに、生徒がやたらと「je(私)」を入れようとした、という話があった。一方で、ディセルタシオンでは「私」は入れないという厳密なルールがある。面白い。確かに俳句では「私」はわざわざ言わない。
ダ・ヴィンチ以降の遠近法や、中国から連なる日本の山水画にあるように、空間認識にも信仰の問題が影響している。絶対者を想定した原理の元に空間を捉えて再構成しようとする一神教の考え方と、自然の中での個人の主観的な風景を捉えようとする多神教的日本の在り方は違う。
※谷崎潤一郎も、「大陸と日本」の物語の論理構造の違いを述べていた。
個人的に現代の「感想文」には生活綴方の精神の一部しか受け継いでいないようにも思う。書くべきは「私の感想」というより、俳句・写生文的に「私を通過したこと」、つまり生活についてなのではないかと思うのだ。
※地方の子どもたちが地域の貧窮した状況を綴ったことで統制が効かなくなると政府には捉えられた側面もあったようで、生活綴方運動は1940年代に下火になった
※だから写生文や随筆を僕はとてもアナーキーな行為だと思っているし、だからこそDIY BOOKSの活動を通して随筆家が増えた方がいい、と思っている。
日本では「和」を保とうとする概念が支配的で、それは「意見文」のように場を調整する考えに至るわけだが、ときにそれは付和雷同な人間を増やすことになりかねず、空気を読んで忖度を生みかねない危険性もはらむ。
日本の論理とSNSやビジネスの論理はアンマッチが多いのでは
どうも日本の風景と繋がる根本的な論理と、政治・会議、SNSなどシステムの在り方がマッチしていないように思うのである。というより『論理学的思考とは何か』で書かれているような、場面に応じた論理手法の使い分けができていないことが問題だろう。
X(旧Twitter )が他の国より日本で人気なのは、「あはれ」を詠いやすいつくりだからだと思う。ただそこに拡散機能があるために、炎上して人の命まで奪うことになる。こんな機能は本来必要ない。無駄な世間(狭い意識の、ムラ社会)と対立を生み出している。
Twitterを生み出したジャック・ドーシーや、リツイート機能をつくったエンジニア、クリス・ウェザレルがそれを後悔しているように、本来は拡散など必要なかった。「新宿なう」「ゴーゴーカレーなう」でよかったのである。だがこれはアメリカの経済的な論理で生み出されたものだ。インプレッションがより多くなり、ユーザーも増える仕組み。ただここに日本の感想を述べる論理がマッチしていない(というより悪魔合体してしまった)。
ただ、いま多くの人がやっているようにXを使わなければいい。SNSをやめればいい。あるいは別のSNSに移ればいい。もしくはXにふさわしい論理手法で語れればいい(難しいのだが)。
現代で起こっている意見の対立の現場には、「もしかしたら論理手法自体の違いかもしれない」と一歩立ち止まるメタ認識がまず必要だ。それこそがムラ社会的な「世間」ではなく、大人な「社会」だと僕は考える。
演技力と、論理の使い分け
先日のM-1グランプリ第20回で優勝した令和ロマンの高比良くるまはその演技力を、マジカルラブリー野田や霜降り明星・粗品に評価されている(個人的には松井ケムリの「自分」でしかありえない在り方も好きである)。
MCが「その場の主語」になりがちな現場ではなく、自分を出しやすい場所を選び、その場その場で演技をする。それは八方美人や自分がないということではなく、しゃべくりや漫才コント、ネタの構成や演技を変えるようなものなのだ。
※個人的に、日本のお笑いはかなり高度なコミュニケーションの試行の宝石箱だと思っている。
大事なのは「相手に合わせた演技力」なのだと思う。自分の感じたことを、どういう手法で伝えるか。それをフラットに受け止めるか。違う意見を出せるか。そういう場が、社会がいいなと思う。
演技だからといって嘘ではなく、自分や相手をより活かすための手法である。それは論理的思考を使い分けるということにかなり近いのではないかと思った。
渡邉雅子『論理的思考とは何か』(岩波新書)
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